じえぐみん(杰供明)のブログ

文体が安定しません。一人称も意見も情緒も安定しません。何一つ安定していません。

コミケ102 新刊解説

コミックマーケット102(コミケ102、C102)が、8月12日(土)、13日(日)に開かれます。私のサークル「ゆらゆら計測」は、12日(土)、東館6「ソ」列16aにサークル参加します。

今回のC102は、久々に入場制限がない、リストバンドを買えば誰でも入場できるという点には期待が持てますが、まだコロナ流行下であり、また大型の台風も接近中、そしてそもそもの前回記事で書いたような紙媒体同人離れなど、まだまだ楽観はできません。

正直申し上げますと今回の頒布数については期待していません。それでも、何もせずに失敗するよりは、せめてやれることをやってから敗れ去りたい。そう思って、今日は新刊の解説をやっていきます。

お品書き

新刊①「ふるさとさがし ~帰郷、管野直枝/サーシャ・I・ポクルイーシキン~」

全体的に悪質パロディの1冊です

B6横判/28ページ(うち23ページ四色刷り)/1200円*1

著者は「ウィッチーズ版、ドール版『遠野物語』」と自称していますが、まあ無礼(ナメ)んなよって感じでしょうね皆様からは。実際柳田國男だってそう云うでしょうね。そもそもこの撮影旅行には遠野物語ミリしらで行って、帰ってから読んだわけなのでますます無礼腐ってます。いいんですよ。実は元ネタは森山大道の「遠野物語」なので。

遠野物語 (光文社文庫)

私がこの森山大道の「遠野物語」を初めて見たのは2年位前でしょうか。ちょうど自分の作風も他の写真家の影響を受け始めたころなのでちょうどコンポラ離れ・モリヤマ離れが始まった頃でした*2。御存知の通り、同書も氏の「コンポラ離れ」が始まっていた時期のものですから、そこがツボったのかもしれません。というわけで

扉紙も大変悪質なパロディとなっております。初版を持ってるわけでもないのに*3

丁寧に無礼るなら許されるわけでもないが……

「旅するときにガイドブックなんぞ買わないのが旅の玄人」

現実的な話、ガイドブックは大変参考になった。怪しい口コミ情報が蔓延る今だからこそ、確実な情報ソースとして持っておく価値に改めて気付いた*4。しかし一冊一冊、今回行かない東北の観光地まで載ったガイドブックを持ち運ぶのはどう考えても手間なので、こういう手段を取った。

数日前に紙の書物がどーこーと言っていた人間の所業とは思えない。

さて、ちょうど出発した6月に発行されたPopeyeの「一人旅特集」にも遠野が取り上げられていたので、参考として持っていった。その取り上げ方は、私同様に森山大道の「遠野物語」をフィーチャーしていた。けど、そのノスタルジアを強調するような切り込み方にはなんか違和感を抱いた。

特集中では森山大道が"ふるさと”と呼んだ」と何回も繰り返していた。確かに「遠野物語」中でもエッセイ部分でそのように書いている。ただ写真もそうやってノスタルジアを強調しているかといえば、むしろ真逆なのが同書だ。

同氏の作品は、どこで撮っても被写体が匿名的で、土地や題材に依存しないなにか、もっと言えば「ダイドニズム」があふれるのである。どこか甘ったるい被写体への愛着を持っていても視覚的な執着*5がなく、なんとなくフラットだ。思いがあっても一方通行で、そこに入りきれず、想い入れまで行かない。

 

具体例を言うなら、「遠野に来てまでそれ撮るかフツー?」ってのまで写真集に収められている。居酒屋の軒先、民謡ショーや町内行事のポスターといった日本全国どこでも同じであろう、無個性なもの。極めつけはビニ本(?)の「尻出し娘ウンション中」と煽る表紙である*6

でもその被写体選びにはどうでもいい卑俗なものまで写してこその「ふるさと」なのだ、という意図があったのかもしれない。なのでノスタルジアを押し出したその特集には、「ホントに全部読んだのかなあ」という印象を抱いてしまったのだ。

決して偉いことは言えないので……

さて、今回の新刊「ふるさとさがし」でここで話してきたような境地にたどり着けたかといえば、ちょっと微妙なところだけれど。

けれどもパロディ以上に、二次創作元を含めた元ネタへのリスペクトを持って取り組んだつもりではある。そしてなにより、遠野という土地に対するリスペクトは決して忘れていない。いや自分なりに最大限の力と技術を以て取り組んだ

そうして全身全霊を込めてやってみたら、どうも元ネタとも、当初考えてたものよりも異なる何かが出来てしまったようだ。正直、この新刊をどう説明しようか自分自身迷っている。だからこそ、会場で一回眺めてほしい。文章も写真も含めて。そこで例える言葉が見つけられたら、ぜひともお手にとって頂きたいと思います

ついでに

ポスターも悪質なパロディです

新刊②「猛犬っ娘カーニバル!」

A5縦判/20ページ(全ページ四色刷り)/300円

語彙力が尽きたので。こちらは会場限定本です。

ひねくれてもこじらせてもいないわかりやすい表現を心がけました。

単にかわいいとか楽しいとか、そういう気持ちで読んでいただけると幸いです。お安いのでこちらだけでも、お土産程度にどうぞ。

 

*1:表紙にエンボス紙使用。

*2:単に勝手に猿真似してたのをやめただけでしょーが

*3:しょうがないじゃんプレミアついて高いんだもの

*4:あとは混雑しそうな場所を避けるために

*5:「どうしてでも撮ってやろう、何枚でも撮ってやろう」というもの

*6:しかし今からすると酷いよな、特殊性癖の押し付けって

回復しました/ホッピー/守破離

体調に関する報告

こんばんわ。コロナに罹患して自宅療養を始めてから3日目ですが、早くも症状がほぼ消失しました。

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体温はこんな感じで35〜6℃台を行ったり来たりしてます(多分ずっと寝ていたせいで基礎体温が下がってしまったのでしょう)。喉の痛み、せきは軽微。鼻水、消化不良はもとからなくて食欲も旺盛。ここからぶり返すことがなければ、完璧です。

 

それから昨日の鬱状態は、おそらく身体が動かないため2日間ほどレクサプロを服薬出来なかったためのようです。明け方に落ち着いたので服薬したところ、とてつもないシャリピン感がきてセロトニンでガンギマリしました。

ただ「鬱状態の自分もまた人格の一部として受け止める」ようにしているので、昨日の日記は消さないことにします。

ホッピーと守破離

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副作用の感覚を示す「シャリピン」は何か「シャリキン」に似ている。ついでにシャリアピンにも似ている。よく店で出されるホッピーの焼酎、いわゆる「ナカ」に使うキンミヤ焼酎を、氷を入れる代わりにシャーベット状に凍らせてソト、つまりホッピー本体を注ぐというものだ。

僕自身はホッピーが好きだが、シャリキンという飲み方は好かない。この飲み方の動機自体に問題があるのだ。シャリキンでホッピーを飲む時の利点は

  1. 氷が入らない分ナカの濃度が高いのでより早く酔える
  2. 氷入りよりもより清涼感を楽しめる

というものがあるようだが、それは何か「ホッピーの本義」に反するような気がする。

 

まずホッピーはビールのより安い代替品だと思っているので、性質もできるだけビールに似通っていた方がいい……もちろんアルコール度数も。一部クラフトビール、例えばバルチックポーターなどならまだしも、ビールの度数が4%から12%まで製品によってまちまちでは、どの店でも同じペースで飲む事など到底不安で出来ない。

だがホッピーの場合、シャリキンにして濃度を変えられてしまうと、同じペースで飲んでいても到底安心できないのだ。普段と同じつもりで飲んでいても、トラップにハマり、折角の夜を台無しにする。そんなことは避けなければならない。

 

また清涼感については、小手先のテクニックを使う前にまず「ナカを冷蔵する、ソトを冷蔵する、ジョッキを冷やす」という「三冷」を徹底する方を先にしてほしい。ナカの焼酎ボトルを常温から注ぐのは、あまりよろしくない。通常の飲ませ方で十分な清涼感を演出出来て初めて、より清涼感や濃さを求めるツウな客の要望として用意するオプションがシャリキンなのではないだろうか。

ホッピーにとって、「三冷」とは日本の伝統芸能でいうところの「守破離」にすら近いものがあると思う。確かにそういった「カタ」の概念が当てはまらない酒類の方が多いかもしれないが、ホッピーは「ソト・甲類焼酎(・氷)」というシンプルな構成で成り立つからこそ、同じくシンプルな要素と「見立て」から構成される日本の伝統芸能に似てくるのかもしれない。

 

もっとも僕自身は肝心の「守破離」に関してはだいぶ懐疑的なのだがその話は別途創作論として。

紙の書物が絶滅したあとの「同人紙媒体」のふるまいかた

夏コミの告知を書く前に、これは書かなきゃいけないなと思っていた。ふるまいかた、というのは大袈裟な言い方かもしれないけれど、要は「どこに規範(目標)をおけばいいのか?」という話である。

 

漫画・文字媒体を問わず、最近どんどんスマホで読める電子化が進んでいる。それどころかオーディオブックの普及も最近は本当に著しい。みんなそんなに本を持ち歩いたり、目を本に向ける時間すらないっていうんだろうか。紙離れはいまだに留まるところを知らない。

同人業界、というかアマチュア創作活動全般なんだけれども、やっぱりこの電子化の波に影響を全く受けない、というのは難しくなってきている。どういう創作をしているか、何に関心があるのかという発信のために常日頃から「無料の」SNSの投稿が不可欠になっているし、最近は電子配信なり、SkebなりFantiaなり、電子でマネタイズまで完結するシステムまで現れつつある。

そう思うと、紙の書物の最末端である同人紙媒体じたい、実際にも心理的にも、主観的にも客観的にも、存在感がゆらいでいるように感じないだろうか。人によるのかもしれないけれど、これまで商業紙媒体を創作活動の規範や目標としてきたのなら、それらの地位すら危ういとなればますます動揺を感じているかもしれない。

「これから先、紙媒体で同人作品を出し続けていく意味はあるんだろうか」と思ってしまうのである。電子媒体よりコストもかかってしかたなく、頒布機会も年に数回しか無いのに*1

 

もし、同人活動、あるいはより広範囲にアマチュア創作活動を意地でも紙媒体で続けていくのだとしたら、その存在意義あるいは規範は「紙媒体を作る技術や、伝え方≒装丁・組版・デザインの技巧を後世に伝える」ということにあるのかもしれない。

いやこれはひょっとして、紙の書物が消費社会と実用主義から離れることによって、より洗練されて価値を高めていくということにつながるのかもしれない。例えば書道。今の時代、毛筆と墨で実用の文章を日常的にしたためる、という行為はほとんど行われていない。つまり、書道は実用主義から完全に離れてしまったといえるわけだ。

だけれど、結局書道は今のところ廃れていないし、今後廃れる様子もない。むしろその技術や技巧を洗練させて現代にまで残っている。今後は紙媒体の制作も、そうした形で残っていくのではないだろうか。しかも凝った上製本を作る技術だけが残るわけでもなく、「あえて」安っぽく作るとかボロボロに作るとか、そういう技巧も現れてくるだろう。いつだったか、あえて落丁だらけにした製本も見たような気がする。

 

売上も市場も考えなくていい、作りたい内容と作りたい装丁で作れる同人紙媒体は、確かに非効率かもしれない。だから作っただけで「本を作る技術の保存にまたちょっと貢献した」それくらいに思うのがちょうどいいんじゃないんだろうか。

効率とか、売上とか、市場とか、需要とか。そうした土俵で戦っていくには、もう紙の書物は苦しいのかなと思う。そろそろ戦いから解放してあげたい。

 

ちなみにタイトルはウンベルト・エーコの「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」とルイス・ダートネルの「この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた」のパロディである*2

*1:ちなみに現在「コスプレ以外の写真集メインの即売会」を探しているのだけれど全然情報ない。あれば頒布機会が格段に増えるけれど

*2:ちなみに前者はエーコがもう一人と結論はそこそこに「俺こんなレア本読んだんだぜ自慢」の応酬をするだけで、本の未来を考えるにはあまり参考にならない。後者はこれから読む

コロナになるという挫折経験

先日、7/26、新型コロナウイルス陽性と診断された。2020年以来3年間頑張って回避してきたのに、とうとう運も尽きちまったかという感じである。仕事の関係上、その日から会社が3連休だったのだが、全く外出もできず、さらに土日まで潰れることになってしまった。これを機に会いたかった人もいるのに、新しい交友関係を広げたかったのに、それもできなくなってしまった。

 

そもそもこのタイミングでコロナにかかってしまったのも、同人活動で無理をしてしまっていたのが原因ではないか。だがその同人活動で無理をしてしまっていたのも、合同誌での失敗→誹謗中傷連投からの垢消し→精神状態悪化→サバゲグループからの追放 など、ドンガラガッシャーンと壊れていく対人関係の巻き返しを図るために悪い意味で一本気になってしまっていたのが原因では無いだろうか。たかが趣味である、遊びである、でもアイデンティティであった。同人って。その活動すら出来なくなる瀬戸際になってしまっているのだとしたら、もう自分のアイデンティティをどこに求めればいいんだろうか。

 

もう健康を損なうなら、同人活動なんて辞めた方がいいのかもしれない。また騒ぎたいだけで分かりやすい言葉にばかり飛びつく、反知性的オタクに日々ムカついてばかりいる最近では、もう脱オタした方がいいのかもしれない。

 

なら何を代わりのアイデンティティにする?今から地元で仲間を見つけてジョギングとかゴルフや釣りにぞっこんになったり、町内会の仕事にのめり込んだりすればいいのか?それは違うと思う。というかそっちの方が反知性の御本尊みたいなもんだし、人間関係が破綻した際のリスクが地域社会の生活にすら不便が生じる、村八分なわけで余計リスキーだ。何より考え方も雰囲気も、なおさら自分には合わないだろうなあ。

本来なら2本目のポストは、C102の告知になるはずだった。それがこんなことを書いてしまっているのは、痛恨の極みというほかない。

出戻って来たキモオタク

はじめましてのごあいさつ

じえぐみん(杰供明)です。これまでメインで使ってきたTwitterが不安定になったり名前変わったりで今後が怖いので今回ブログ開きました。

まあ自分の書く文章は長かったりして、あんまり短文のSNSには向いてないかなとか思い始めてたのでちょうどいい契機だったと思います。また哲学、社会学、心理学的な評論とかはあんまり興味持たれないかなって感じもするので、河岸を変えてみるのも悪くないかとね。

 

趣味について

ドール撮影が好きで、よく撮ったものを投稿したり、まとめて写真集として出したりといった活動をしてます。まあもしよろしければインスタもフォローしてね。

 
 
 
 
 
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同人誌は「ゆらゆら計測」という個人サークルから出しています。主にストライクウィッチーズシリーズの二次創作として活動してます。今はドール写真集だけですが、今後は小説書きにも復帰していきたいと思います。

https://www.melonbooks.co.jp/circle/index.php?circle_id=41122

あと、普段オフの時は読書をしているか二次元を追っています。読書は雑多なので興味関心範囲の中心とかは無いですが、まあせいぜい読書記録はここに置いていきたいかと。二次元で追っているのはストライクウィッチーズシリーズとアサルトリリィですね。

で、なんで「出戻り」?

実は高一〜大二にかけてはてなダイアリー(懐かしいですね)やってたので。長文の置き場としてはnoteとかも試行したけれど、なんか結局書くのにエネルギーがかかり過ぎて向いてないみたいです。

このブログは毎週1回更新くらいを目標に、無理のない範囲で自由に続けていきたいと思う。なので統一感も出さないし、推敲も、しません。楽に書きたいのよね。一人称すらワタシ、わし、俺、ボクでコロコロ変わると思う。

 

というわけでよろしくねえ。