じえぐみん(杰供明)のブログ

文体が安定しません。一人称も意見も情緒も安定しません。何一つ安定していません。

紙の書物が絶滅したあとの「同人紙媒体」のふるまいかた

夏コミの告知を書く前に、これは書かなきゃいけないなと思っていた。ふるまいかた、というのは大袈裟な言い方かもしれないけれど、要は「どこに規範(目標)をおけばいいのか?」という話である。

 

漫画・文字媒体を問わず、最近どんどんスマホで読める電子化が進んでいる。それどころかオーディオブックの普及も最近は本当に著しい。みんなそんなに本を持ち歩いたり、目を本に向ける時間すらないっていうんだろうか。紙離れはいまだに留まるところを知らない。

同人業界、というかアマチュア創作活動全般なんだけれども、やっぱりこの電子化の波に影響を全く受けない、というのは難しくなってきている。どういう創作をしているか、何に関心があるのかという発信のために常日頃から「無料の」SNSの投稿が不可欠になっているし、最近は電子配信なり、SkebなりFantiaなり、電子でマネタイズまで完結するシステムまで現れつつある。

そう思うと、紙の書物の最末端である同人紙媒体じたい、実際にも心理的にも、主観的にも客観的にも、存在感がゆらいでいるように感じないだろうか。人によるのかもしれないけれど、これまで商業紙媒体を創作活動の規範や目標としてきたのなら、それらの地位すら危ういとなればますます動揺を感じているかもしれない。

「これから先、紙媒体で同人作品を出し続けていく意味はあるんだろうか」と思ってしまうのである。電子媒体よりコストもかかってしかたなく、頒布機会も年に数回しか無いのに*1

 

もし、同人活動、あるいはより広範囲にアマチュア創作活動を意地でも紙媒体で続けていくのだとしたら、その存在意義あるいは規範は「紙媒体を作る技術や、伝え方≒装丁・組版・デザインの技巧を後世に伝える」ということにあるのかもしれない。

いやこれはひょっとして、紙の書物が消費社会と実用主義から離れることによって、より洗練されて価値を高めていくということにつながるのかもしれない。例えば書道。今の時代、毛筆と墨で実用の文章を日常的にしたためる、という行為はほとんど行われていない。つまり、書道は実用主義から完全に離れてしまったといえるわけだ。

だけれど、結局書道は今のところ廃れていないし、今後廃れる様子もない。むしろその技術や技巧を洗練させて現代にまで残っている。今後は紙媒体の制作も、そうした形で残っていくのではないだろうか。しかも凝った上製本を作る技術だけが残るわけでもなく、「あえて」安っぽく作るとかボロボロに作るとか、そういう技巧も現れてくるだろう。いつだったか、あえて落丁だらけにした製本も見たような気がする。

 

売上も市場も考えなくていい、作りたい内容と作りたい装丁で作れる同人紙媒体は、確かに非効率かもしれない。だから作っただけで「本を作る技術の保存にまたちょっと貢献した」それくらいに思うのがちょうどいいんじゃないんだろうか。

効率とか、売上とか、市場とか、需要とか。そうした土俵で戦っていくには、もう紙の書物は苦しいのかなと思う。そろそろ戦いから解放してあげたい。

 

ちなみにタイトルはウンベルト・エーコの「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」とルイス・ダートネルの「この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた」のパロディである*2

*1:ちなみに現在「コスプレ以外の写真集メインの即売会」を探しているのだけれど全然情報ない。あれば頒布機会が格段に増えるけれど

*2:ちなみに前者はエーコがもう一人と結論はそこそこに「俺こんなレア本読んだんだぜ自慢」の応酬をするだけで、本の未来を考えるにはあまり参考にならない。後者はこれから読む